遠藤周作『深い河』を読んで、宗教と信仰についてとりとめなく考えてみた

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遠藤周作『深い河』を読了しました。

これまでほとんど読書らしい読書をしてこなかった(このブログの)筆者が、ふとしたきっかけで地域の図書スペースを利用し始め、これが六冊目の本になります。
友人におすすめの本はないか聞いたところ遠藤周作を勧められ、「名前は聞いたことある」程度の認識しか持たないまま、とりあえずと手に取ってみました。
結果、非常に良い読書体験を得ることができました。
(おすすめしてくれた友人に感謝。今度『沈黙』も読んでみるよ!)

本記事では、筆者がこの本を読みながら宗教や信仰についてとりとめなく考えたことを、備忘録的に書き綴っていきます。
作品の具体的な感想や評価については既に無数のソースがありますので、そちらにお任せします。

はじめに(このブログの)筆者と宗教について

現在の私の信仰を一言で説明すると「イスラームに片足を突っ込んだまま宙ぶらりん」です。

大学時代、初めてイスラームに触れ、それまでの科学至上主義的な常識を粉々に打ち砕かれ、その教えを学び、思うところは多々ありながらも改宗には踏み切れず、直感と疑念が共存したままという状態です。
改宗していないにもかかわらず、豚とアルコールは口にしなかったり、肌の露出に抵抗があったり、唯一神の存在は感覚的に納得していたり、でも確信しているわけではなく…と、矛盾の権化みたいになってしまっています。

余談ですが、記事上の写真は、とある友人と旅行で訪れた裏磐梯の日の出前の池の様子です。
このとき隣を歩いていた友人は、もうこの世にいません。
私が宗教と向かい合うとき、どうしても彼女のことを思い起こさずにはいられなくて、この写真を載せてみました。

大津と美津子の宗教観

作中、大津というキリスト教の神父が登場します。
また、彼の信じる神を馬鹿にしながらも、虚ろな心を埋めようと迷走する美津子という女性も登場します。
数多の人生、数多の信仰が混沌と入り混じる本作で特に入念に描かれていたのが、この二人を巡るお話でした。

大津の宗教観は「どんな国、どんな宗教、どんな善悪の中にも神は内在し、すべての人を愛される」というものですが、これがヨーロッパの教会のスタンダードと相容れず、異端視されてしまいます。
私もほとんどそのままの宗教観を持っていただけに「えっこれアウトなんだ!」とびっくりしました。
(※アウト=誤りという意味ではなく、宗教的権威からは異端的に見られるんだという意味です)

調べてみたら、こういう考え方を「汎神論」と呼ぶらしいですね。
わざわざ名前までついているとは…

話が逸れました。
そんな大津ですが、最初はやはりぼんやりとした曖昧な考えからのスタートでした。
それが人生を通して少しずつ確信を得ていき、異端と言われても本心を偽らず、自ら信じる道を実践していくその様には、共感の念を禁じ得ません。

そして、彼を馬鹿にしながらも知らず知らずのうちに頼り、心の穴を埋めようとする美津子。
彼女の考え方にも非常に思うところがありました。

神なんていないと愚弄し、悪に惹かれ、偽善を蹴飛ばし、その一方で虚しく愛に飢えている。
わからない、理解できないと突き放しながらも大津の話を聞いている。
そうしてわからないなりに少しずつ、形のない何かを感じ取り、つかみ取っていく。

宗教を強烈に拒絶する姿は過去の自分、わからないなりに探っていく姿は今の自分。
そう重ね合わせずにいられませんでした。

信仰の交錯

作中、実に多種多様な宗教や信仰や世界観が交錯します。
ヒンドゥー教、キリスト教、仏教、シーク教、イスラーム、無宗教。
唯一神、ヒンドゥーの女神たち、仏、転生、禁忌、カースト、正統、異端、秩序、混沌。
まさに現実世界の縮図のようです。

そんな世において、私のような一人の人間が何かを信仰するということはどういうことだろう、とふと考えてしまいます。

一体何を信じればいいのか。
何が真に正しいのか。
これだけカオスに交錯している世の中で、私は一体どうすればいいのか。

きっとそんなこと、本当は誰にもわからない。
何が真理かなんて、本当は誰にもわからない。
そのはずなのに、それぞれなんらかの世界観を信じて生きている、たとえ無宗教であっても。
わからないのに、なぜ信じられるのか。

人間が真理を理解するとしたら、それは自力でわかるのではなく、神秘的な何かがわからせるんだと思う。
そんな機会が訪れるまで待つことしかできないんだろうか。
いつ死んでしまうかもわからないというのに。

…というような考えが、これまで飽きるほど繰り返したのと同じように、ぐるぐると堂々巡りしてしまいます。

言葉と理性だけでは辿り着かないものなんじゃないか。
正統/異端なんて平たく断じられる話じゃないんじゃないか。
等々、直感のレベルで思っていることはあるのですが、人に説明できるほどの確信はありません。

信仰なんてなくても、多分、この世を生きることはできるでしょう。
でも強迫観念というか、それではいけない、このまま死んだら取り返しのつかないことになると思えてならないんですよね。
大学でイスラームに触れたあのときから。

 

***

 

以上、どこにも着地しない宗教と信仰の話でした。
はたして着地できるのはいつになることやら…

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