今日、知人のダンスの舞台を見ていたとき、不意に体の中心を掴まれてグンと引っ張り込まれる感覚に襲われました。
ダンサーたちの顔を認識しなくなり、上手いとか下手とか、どんな人かとか、歌詞の意味とか、動きの意味とか、あらゆる言語的思考が遠ざかっていきました。
あるときはぼんやりと全体を、あるときは肉体の曲線を、あるときは動きの流れをありのままに見つめ、鋭い、しなやか、太い、軽い、面白い、綺麗などの感覚とともにとらえました。
言葉と理性の世界から、感覚と直観の世界に切り替わったのだと感じました。
この切り替わりは、以前にも体験したことがあります。
下記のツイートがそれです。
昔の自分と、大学以降の自分。サバイバルするために捨てたものが二つあったんだ。ひとつは本性。これは退職を機に取り戻した。もうひとつあったんだ。気づかなかった。感覚だ。
— 真中ユエ@manakaweb (@manakayue) September 14, 2015
感覚。感性。言葉では至らない何か。言葉にはならない何か。理屈ではない何か。説明する意味のない何か。気持ちとか感情とか、そういうのでもない。また取り逃しそうだ。忘れまいとメモしているのに、言語化できないものを言語化しようとするから、また嫌われて逃げられる。
— 真中ユエ@manakaweb (@manakayue) September 14, 2015
つまり、昔はもっと頻繁に、このようなものの見方ができていたのです。
実際、感覚と直観の世界に切り替わったときに、まず感じるのは懐かしさです。
子どもの頃、多感だったあの頃、こんな風にして鮮烈な体験を心に刻んでいたなと。
ダンスを見るとき、音楽を聴くとき、絵を見るとき、映画を観るとき。
絵を描くとき、空想を膨らませるとき、物語を書くとき、キャラクターを描き出すとき。
今よりもずっと簡単に、無意識のうちに、向き合ったその瞬間に、感覚の海に潜っていたのです。
言葉も意味も、壁も枷も存在しない、自由極まりない水中の世界に。
そして、言葉にならない感動を覚え、衝動に駆られ、恐るべき集中力を発揮し、その対象に没頭していくのです。
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芸術的な意味において、クリエイティブな活動には、感覚の海へのダイブが非常に重要になってきます。
おそらく、ダンスや音楽や絵など、表現や創作活動をしている方には通じやすく、そうでない方にはイメージしにくいかもしれません。
日頃、私たちが社会の中で求められるのは、もっぱら言葉と理性による合理的な思考です。
私はWebデザイナーをやっていますが、デザインという、一見芸術と似たような仕事であっても同様です。
デザインは感覚ではなく言葉と理性によって作られており、必ず、その形になった理由や意味が存在します。
社会に出れば出るほど、私たちの意識は言葉と理性に縛られ、凝り固まっていきます。
そうしていつの間にか、感覚の海への潜り方や、その感触を忘れ去ってしまいます。
それではまるで片手落ちなのです。
半分だけの世界で窮屈に生きているのと同じことです。
生まれるものも生まれないのです。
だから、この感覚を忘れないように、そして取り戻せるようにと、こうして文章に残しています。
矛盾しているような気もしますが、仕方ありません。
私は普段、言葉と理性の世界でばかり生きてしまっていますから。