つらい気持ちにはいつだって居場所がない

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暗い室内から眺める明るい景色

つらい、苦しい、泣きたい、しんどい、寂しい、悲しい、やりきれない。
こうした感情はいつだって好ましくないものとして語られます。
あるときは忌み嫌われ、あるときは蔑ろにされ、あるときは乗り越えるべきものとされ。

たとえば誰かが「生きるのがつらい」と嘆いていたとして、これに対する完全無欠な声かけは誰の目にも明らかです。
すなわち「大丈夫、どうにかなる」。

確かにその通りでしょう。
つらい思いをして生きてきた人間は数知れず。
そうでない人間を探す方が難しいほど、ごくありふれた感情でしょう。
遙か昔から現在に至るまで、気が遠くなるほど繰り返されたことなのでしょう。
そうしてみんななんだかんだと生きている。
実際、どうにかなっているわけです。
ぐうの音も出ないほどの正論です。

でも、それなら、今まさにその人を痛めつけ苦しめている「つらい」という気持ちは、一体どうなるのでしょうか。
これでは「そんな感情は無意味だ」と言っているのと同じです。
「そんなものに振り回されているお前は愚かだ」と言っているのと同じです。

とはいえ、つらい気持ちをそう簡単に認め、受け入れるわけにもいきません。
なにせ、つらいことですから。
痛く、苦しく、不快な、嫌な思いをさせるものですから。
「つらいの全然OK、そのままでいいよ!」なんて、普通は思えないでしょう。

つらい気持ちにはいつだって居場所がありません。
「どうにかなる」が真実であるのと同じように、「つらい」と感じる心も真実であるはずなのに。
ポジティブとネガティブの扱いの差たるや。

前向きな真実で誤魔化す以外に、よい解決方法はないものでしょうか。
擦り切れ、ぼろぼろになった心を抱えながら、今日もそんなことを考えて生きています。