宗教を安易に否定する人は、単に宗教のことを知らないだけ

当サイトではアフィリエイト広告を利用しています。

上空から見下ろした地球

宗教。
これほど誤解に満ちた言葉もないでしょう、特に日本において。

どれほど誤解されているかといえば、宗教の話をするときに、まず「宗教」という言葉の定義を揃えるところから始めなければならないほどです。
宗教について話そうとすると、そのほとんどは、誤解されたままちぐはぐな会話になるか、定義をすり合わせるのに終始するかのどちらかになってしまいます。

日本では「宗教=カルト」「宗教=危険」と思われているケースが圧倒的に多いように思います。
でも本当は、そうではない。
私が言わんとしている宗教も、そうではない。

もしあなたが「宗教=カルト」「宗教=危険」と思っているのなら、お伺いします。
あなたは、宗教について考えたことがありますか?
自分事として宗教に向き合ってみたことがありますか?
宗教とは何でしょうか?

おそらく、その答えは曖昧なものでしょう。
そして、そもそもよく知らないのだということに気付くでしょう。

かくいう私も、いまだ確信に辿り着いていません。
肩書きもいまだに無宗教のままです。
それでも、宗教については大学時代からずっと、自分事として真剣に考えています。

宗教とは、真理です。
この世もあの世もすべて含めた世界の理。
それを人間に伝える教え。
それが宗教です。

うさんくさいと思いますか?
非科学的だと思いますか?
非理性的だと思いますか?

では、科学は絶対でしょうか。
理性は万能でしょうか。
これほど不完全な人間の手による科学が確かだと、これほど不安定な人間の理性がすべてだと、言い切れるのはなぜですか。

そう問いかけたとき、科学や理性を「信じている」自分の存在に気付くはずです。
そして更に深く問いかけたとき、科学や理性では及ばない領域の存在にも気付くことでしょう。
最後には、科学や理性が宗教的世界観の一部にすぎないことを知るでしょう。

なぜそう言えるかというと、私自身がまさにそうだったからです。
大学でイスラームに触れるまで、なんの疑いもなく、父親譲りの科学至上主義に染まっていました。
イスラームのことも、最初は「そんな文化もある」「それにしてもばかばかしい」と侮っていました。
でも、学んでみたら変わりました。
それまでの価値観が、砂の城のようにもろく崩れ去っていきました。
井の中の蛙のように、ひどく狭い世界に生きていたのだと知ったのです。

これを読んでどう思いますか?
怖いと思いますか?
気持ち悪いと思いますか?

では、あなたはこの問いに答えられますか。
あなたはどこから来てどこへ行くのか。
あなたはなぜ生きているのか。
あなたが死んだらどうなるのか。
あなたの命は、気持ちは、意識は、意味は、魂は、どうなるのか。
希望とは何か。
幸せとは何か。

多分、そう簡単には答えられないでしょう。
私も答えられません。
「こうらしい」ということは言えるけれど。

この根源的な問いに答えてくれるのが宗教です。
つまり、もっとも大きな「知」です。
これを無碍に否定するということは、すなわち無知です。
果たして、一個の人間にとってはどちらの方が好ましいでしょうか。

世界には様々な宗教があります。
そのどれもが確からしく、人生と世界に対して、深い示唆を与えてくれます。

だとしたら、一体どれが真理なのか?
何を頼りに確信に辿り着けばいいのか?

私は今、そこでつまづいています。
これについて語りたい、知りたいと思っています。
しかし、冒頭でお話しした通り、宗教についてまともに話し合える機会がほとんどありません。
ですからほとんど孤独に、その答えを求めて手探りを続けています。

今はなんとなく、キェルケゴールを読んでみようかと思っています。
それか、どこかの教会を訪れて話を聴けないかなと。
というのは、イスラームと仏教については、これまで多少なりとも自分の手で触れたことがあるのですが、キリスト教についてはまだほとんど何の経験もないからです。
とりあえず知らないことには、求めないことには、何も進まないので、今はそんな風に考えています。

 

***

 

以上、ちょっと尻切れトンボかもわかりませんが、宗教についてのお話でした。
ご興味のある方はこちらの記事もおすすめです。

遠藤周作『深い河』を読んで、宗教と信仰についてとりとめなく考えてみた