自分を客観視することは自分にはできないという当たり前の話

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自分は○○だ。
感情的な思い込みではなく、冷静に、客観的に見て○○なんだ。

そうして疑いようもなく信じている自己評価、あなたにもありませんか。
もちろん私にもあります。
良い評価にしても、悪い評価にしても。

ただ、やっぱりそれって自分個人の考えにすぎないんですよね。
今日、ある人から言われたのがきっかけであらためて思い知りました。
そして、同じようなエピソードが以前あったことを思い出しました。

自分は仕事が遅いと思っていたら…

私が以前勤めていた会社を辞める前夜のこと。
慰労会が終わり、駅までの道を歩きながら、ある先輩社員と話をしていました。
よく覚えていませんが、多分、会社を辞める理由を聞かれて答えたり、今の仕事に対する適性のなさを打ち明けていたのだと思います。

私「本当に仕事が遅くて、足を引っ張るのが心苦しくて…」
先輩「え、僕らの間ではみんな、真中さん仕事超早いって評判だったよ」

文字だけだとお世辞のようですが、先輩の声は明らかに本音のトーンでした。
心底驚いて「全然自覚がなかった」と率直に伝えると、「自覚してたら逆にまずいかもね」と笑って返されました。
うぬぼれてしまいかねないから、という意味だったのでしょう。

私は非常にマイペースで、のろまで、急ぐのが苦手で、何事もじっくりゆっくり、丁寧に正確に行うタイプです。
当然、会社でも仕事が遅く無駄に丁寧だと思われているに違いないと、信じて疑いもしませんでした。
事実、他の同期の方がバリバリと大量の仕事をスピーディに仕上げていました。
(今思うと、それも「そう見えていただけ」なのかもしれません)

自己評価のなんとあてにならないことか。
実際には「仕事の早い人」と真逆の評価をされていたなんて。
今でも、一体何をもって仕事が早いと思われていたのか見当もつきません。

しかも驚くべきことに、フリーランスでWebデザイナーをやっている今でも、しばしばクライアントから「迅速な対応で助かりました」とコメントをいただくのです。
ありがたさと同時に、自覚のない評価にほんの少しのむずがゆさを覚えます。

良い自己評価はそのままで、悪い自己評価は疑ってみる

以上の例からわかることは、自己評価は決して絶対でも真実でもないということ。
単なる一個人の見え方にすぎないということ。
たとえるなら、ある映画について「私は好き」「俺は嫌い」と言っているような、その程度のことなのです。

ポジティブな自己評価については、そのまま持っておくのがよいでしょう。
自分という評価対象を、自分という一評価者が「いいね!」と言っているのですから、ありがたくそのまま受け取りましょう。
ただし、くれぐれも調子に乗ってうぬぼれないように、気持ち自制気味に行くといいかもしれません。

ネガティブな自己評価については、「本当にそうか?」と疑ってかかりましょう。
すかさず評価者の自分が「なに言ってんの?お前は馬鹿か?」などとあざ笑うでしょうし、疑うのはそう簡単なことではないでしょう。
でも、それは単なる一評価者の考えなのです。
絶対でもないし、真実でもない。
高く評価する人もいるし、低く評価する人もいる、ただそれだけの当たり前のことなのです。

もし、いつかどこかで高く評価する声に出会えたら、大事に心の中にとどめておきましょう。
どうせ見る人によって千差万別なのなら、肯定も否定も価値は同じです。
それならわざわざ否定の声に耳を傾けるよりも、肯定の声を選りすぐり、それを頼りに進めばいいのです。

自分は○○だ。
そう思ったとき、この記事の内容があなたの心に浮かんだなら幸いです。