人を裁く前に我が身を振り返れ

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芝生の上の人影

非常に興味深いニュースを見つけました。

「キリスト教徒は同性愛者に謝罪するべき」、ローマ法王 写真4枚 国際ニュース:AFPBB News

キリスト教と同性愛。
このセンシティブな問題については、一人ひとり、立場も見解も大きく異なることでしょう。

ちなみに私の立場をご説明しておくと、今のところキリスト教徒ではなく、今のところ同性愛者でもなく、けれど同様の問題を抱えるイスラームに興味を持っており、しかし今のところ入信はしておらず、大学在学中に性的マイノリティの研究をしていた、20代の日本人女性です。(宙ぶらりんすぎて自分でも書いてて苦笑してしまう)
政治的な面から宗教を論じることにはほとんど興味がなく、宗教の教えそのものに興味があります。

このニュースを受けて、Twitterで以下のようなツイートをしました。

「そうした状態(同性愛)の人が善良な人物で、神を求めているとしたら、その人を裁く資格が私たちにあるだろうか」

上記は、当該ニュース記事にあったローマ法王の言葉です。
世間では謝罪と許しのくだりが最も大きく取り沙汰されていますが、キリスト教の当事者でない私にとっては、上記の一節の方が深々と刺さりました。

聖書でもクルアーンでも、同性愛は罪と明言されているそうです。
(伝聞調なのは、これまで目にしたのがすべて引用や解説であり、原文を直接読んだことがないからです)
これについて個人的にいろいろ思うところはありますが、話が逸れてしまうので今は触れません。

問題なのは、これを受けて「同性愛者をそうでない者が断罪する」という行いについてです。
「神がそう言っているんだから」と、教えを理由に人を責める行いについてです。

自分のことを棚に上げている。
そのことに気付いている人はどれくらいいるでしょうか。

聖書やクルアーンで罪とされている事柄は、何も同性愛だけではありません。
同性愛者を責める人は、聖典で説かれているすべての教えを完璧に守りきっているのでしょうか?
私にはひとつの罪もない、そう言い切れる人がこの世にいるでしょうか?
守りきれないそれらの罪をして「お前は罪人だ、決して許されない、神がお前を許さない」と他人から強烈に責められる様子を想像してみてください。

また、道徳的な観点からもそのおかしさを説明することができます。
人を責めるというのは、その人から危害を加えられた際になされるべき行為ではないでしょうか。
言わずもがな、同性愛者であるというだけでは他人になんら危害を加えません。
ですから、同性愛者というだけで責められるというのは筋が通っていません。

なにより、また宗教的な観点に戻りますが、私は宗教は個人対真理、一対一のものであると考えています。
一個人が教えとどう向き合うか。
一個人が人生とどう向き合うか。

純粋な意味での宗教は、他人も社会も組織も一切関係ありません。
だから、他人のことをどうこう言って断罪するのはまったく無意味な行為です。
あなたの行く末に、その人の罪は一切関係ありません。

法律的な裁きは人間の仕事ですが、宗教的な裁きは神の仕事です。
人を裁く前に我が身を振り返れ。
つまり、そういうことです。

 

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とかなんとか偉そうに書いておいて、きっと自分の気付かないところで盛大なブーメランになっているんだろうなと、最後の最後に弱気なことを書いてみたり…
ほんと、人のことをとやかく言っている場合じゃないですね。