生後二週間の赤ちゃんに触れてなにもかもよくわからなくなった話

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親戚に赤ちゃんが生まれたのでお祝いの挨拶に行ってきました。

お邪魔しますと上がってみると、おむつを取り替えている真っ最中でした。
ぽやんとしながらされるがままになっている小さいひとと、丁寧な指先で下の世話をしてあげるお母さん。
未知の日常を目の当たりにして、なんだかよくわからない衝撃を受けて、しばし呆然とその姿を見つめていました。

だっこをさせてもらいました。
おろおろしながら、言われるがままにあぐらをかいて、お腹の前で片腕を曲げて、頭の座っていないのをひじの辺りで受け止めて、小さい体を腕全体で支えて、手のひらでおしりを包んで。
不慣れな腕の中で居心地悪そうにもぞもぞと身じろぎする、ほかほかと温かい小さなひと。
お腹が空いていたらしく、しきりに胸をまさぐっていました。

ありがたいことに、ほ乳瓶でミルクを飲ませるのもやらせてもらえました。
がぶがぶ飲む。
不意に休む。
またがぶがぶ飲む。
寝そうになる。
うとうとしながら飲む。
とてもシンプルで根源的な“生”を感じました。

なんだかよくわからないまま、もぞ、もぞ、ぴゃっ、ぴゃっと動く、びっくりするほど小さな手足。
まだよく見えていないはずなのに、確かな意志を持ってきょろきょろと見つめる目。
よく飲んで、よく出して、よく動いて、よく寝る、シンプルで力強い生命力。

あう、とか、ふぎゅ、とか言うたびに周りの人が「はあい」と返す、その光景。

赤ちゃんに触れているときはとにかく必死だったのと、おめでとうという温かい気持ちと、すごいなあという尊敬の念と。
お邪魔している最中はそんな、穏やかなクリーム色のような心持ちだったのですが、帰り道、グラデーションのように自らの日常に戻っていくうちに、なんだかいろいろなことがよくわからなくなってしまいました。

私は一体、何をしているんだろう。
自分ひとりを必死になって生かしながら、毎日一歩ずつ、死に向かって歩いている。
一体なんなんだろう、これは。

ひとつひとつ手にとって、熟考しながら、丁寧に物事と向き合って生きている。
でも、それって、あの生命力を前にしたら、なんだかどうでもいいことみたいだ。
私が大切だと思って、考え抜いていることのすべてが。
信念を持って、覚悟を持って、まっすぐに生きようと両足を踏ん張っているのが。
なんだか本当に、どうでもいいことみたいだ…

私は一体、どこに流れていくんだろう。

将来がどうとか結婚がどうとか出産や育児がどうとか、現実的なこと以前に、生命とか人生とか、根本的なところからまたぐちゃぐちゃにされてしまって、幸せなような泣きたいような、気持ちまでもうぐちゃぐちゃです。
何を感じたのか、何を思ったのか、自分でもよくわかりません。
時間が経てば腑に落ちるのか、それとも忘れ去ってしまうのでしょうか。

お祝いに手渡したフェミニンなフォトフレーム、相手を想いながらうきうきと選んだそれが、なぜかひどく軽々しいものに思えて、どうしてこんなことを思うんだろうと、がっくりと肩を落としたのでした。